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多々良の邸宅に思いをはせて


 元台湾東海大学農学部教授 王良原 先生に「ほうふ日報」にご寄稿いただいた「您好台湾‼ 防府日報版」vol.7、vol.8、vol.10を再度ご紹介いたします。この内容は、2025年11月23日に開催した日台交流セミナーにて王良原先生にご講演いただいた内容の一部です。尚、日台交流セミナー2025のページより、講演の動画をご覧いただくことができます。


「多々良の邸宅に思いをはせて」

元台湾東海大学 農学部 教授 王 良原

◆その1

 防府市内の周防国衙跡のやや北側には多々良山という低山がある。その南麓に、広大な敷地を有する邸宅があることは、市民の誰もが知っているはずです。明治新政府に多大な貢献をしたのち、国許居住の許可により毛利家の当主だった元徳公は、地元に定住すべく、新政府の要職に奉公した同郷の元藩士だった井上馨の協力と提案を得て、1892年に新しい邸宅は着工しました。完成まで24年間も費やしましたが、その間、日清戦争、元昭公の家督相続、日露戦争などがありました。奇縁にも日本が1895年から領有した新領土の台湾から、良質のケヤキを邸宅建設のために調達する予定も重なり、時の首相-伊藤博文、蔵相-井上馨、台湾総督-児玉源太郎ら山口県出身の公人が、共に台湾に最新式の製糖産業を育成しようと政策を練っていた頃に、井上馨がひらめいて、台湾製糖会社の設立資金に参加するよう、1898年に元昭公を口説きました。毛利家の家政協議人であったことから、井上馨は説得に何らかの自信があったのでしょう。

 案の定、当主の元昭公は、三井物産の1500株に次ぎ、大蔵省の出資額と同様に、有力出資者として一千株を受諾しました。これなら、ほかの財界人も安心して追随した構図でした。初期資金の募集が無事に完了し、1900年12月10日に東京にて創立総会が開かれ、会社経営が始まりました。それに翌年2月からいくつかの新式工場の建設が相次いで着工し、ついに1908年、東洋一を誇る高雄州屏東市(へいとうし)の阿緱製糖所(あこうせいとうしょ)が竣工した。これを機に、台湾製糖会社は後日、本社を屏東市に移転しました。

 このように、当時の山口県出身の大物政治家の連携によって、オランダ統治時代から導入されてきた旧来の製糖方法は、より高い生産効率の工程に進化したため、飛躍的に成長。製糖産業は、台湾の産業近代化をけん引しながら、全体の就職率と収入の向上による現地社会の安定化に貢献したのみならず、輸入品に頼っていた日本を砂糖輸出国に転身させました。

記事中の写真説明:「産業界の雄」

「屏東市にあり、わが國産業界に雄飛し、その製産能力三千米噸を誇る最新設備の工場で規模の大なのに驚嘆する」

「臺灣高雄・臺灣製糖株式會社阿緱製糖所」

「Taiwan Sugar-manufacturing Company at Heito, Takao.」

作者:社団法人 台湾歴史学会

収蔵者:国立台湾歴史博物館

ほうふ日報 第13590号 令和8年2月19日発行


◆その2

 前回の寄稿で、1898年の台湾製糖株式会社の設立にあたって、毛利元昭、井上馨、児玉源太郎などをはじめとする明治新政府の要職に就いていた山口県の人物が深く関わったと述べましたが、このような新規事業である株式会社の創設を官民一体型の大規模国家プロジェクトに格上げしたのは、これらの人物が、深い思慮で織り交ぜた政策でもあったからです。

 乃木希典が、桂太郎に続いて第三代台湾総督に就任しましたが、綱紀粛正による統帥力はあるものの、殖産興業に関する具体政策については不得手だったため、積極的な社会整備はできませんでした。他方、一緒に台湾へ帯同した母は2カ月後、現地で感染したマラリアで亡くなったことが乃木の気力を奪ったほか、自身も同じ病に苦しみました。

 さらに、治安の乱れ、財政赤字の拡大を目にした乃木は台湾をフランスに売ってしまった方が、国のためだと弱音をこぼしました。在任期間はわずか16カ月で辞任した乃木の不運を「長州の無能」との理由で、敵対藩閥が政府中枢から長州派閥を排除しかねないと、明治維新の元勲たちが互いに思い巡らして、切り札として選定した後任総督は、乃木と親交のある児玉源太郎でした。

 何としても2代目台湾総督の桂太郎から続いてきた山口勢による台湾経略を成功させたいと、山口の大物たちが決起した中、井上馨は児玉に赴任を説得するために、巧みに事前工作のセットを仕掛けました。すでに樟脳、砂糖の売買で台湾に進出していた三井物産合同会社に新式製糖事業の協力を要請しておき、国策事業として官民連携による会社設立の資本金100万円を蔵相という役職を活かして募金計画を立ち上げました。

 台湾製糖株式会社史によれば、上位3名の株主は内蔵頭(1千株)、三井物産(1500株)そして公爵毛利元昭(1千株)という順番が記載されていますが、ここで筆者が思いをはせて、違う視点から提起したいのは、伊藤博文首相と井上蔵相が連携して、大蔵省が実質的に出資予算を捻出しましたが、出資名義が「宮内省」に属する内蔵頭名義であることが、台湾における製糖事業の成功を導くための工夫だったのではないかと推理できます。

写真説明:旧臺灣製糖株式會社阿緱製糖所を引き継いだ台湾糖業公司の屏東工場エントランス

撮影者:王 良原

撮影日:2026年2月22日

ほうふ日報 第13607号 令和8年3月17日発行


◆その3

 製糖産業の国家プロジェクトの導入を視野に、長州の先輩たちに説得された児玉源太郎は、乃木希典の後任として第4代台湾総督の兼任を受け入れましたが、駐在できる時間が極めて少ないため、補佐役に岩手出身の後藤新平を起用しました。遂に首相・蔵相・総督が緊密に結合した山口連合構図で民政長官を務めた後藤を通して台湾施政を軌道に乗せました。

 なかんずく肝いりの製糖産業近代化事業の推進責任者として、名高い農業経済学者で「武士道」の著者でもある新渡戸稲造を招聘しました。一連の人事布陣はうまく機能した結果、台湾全体の製糖産業の規模は急速に拡大し、沖縄が占めていた砂糖生産の位置づけを遥かに超えたほか、精錬技術も欧米レベルに達しました。「その2」の寄稿に照合してみれば、長州の開国元勲たちが台湾の近代化を成し遂げた強い意志は、宮内省内蔵頭と毛利元昭公を上位出資者に据え、台湾は「陛下の大切な事業地」及び「長州の栄光の集結」であることを内外に思い知らせたと理解できます。

 児玉の後任に就いた佐久間左馬太が継承した長州出身者施政リレーの下、1908年に竣工した阿緱製糖所(あこうせいとうしょ)に台湾製糖株式会社が本社を移転しました。1919年に初の文官から台湾総督となったのは、山縣有朋グループの一員と言われた田健治郎ですが、在任中の1923年4月22日に当時の皇太子裕仁親王の台湾行啓中に経営盛況期に入った台湾製糖株式会社の阿緱製糖所へのご視察を手掛けたことで、長州の公人たちが長年腐心してきた台湾経略はクライマックスに到達したと言えます。

 戦後の台湾製糖株式会社は、日本内地に撤退せざるを得なかったですが、蓄積してきた資金と発酵技術を生かして田辺製薬とともに台糖ファイザーを設立。そして、世界のファイザー製薬につながっていったのです。防府市多々良1丁目にある邸宅で、いかに台湾関連の会話が交わされたか、元昭公の出資が台湾に、世界にどれほどの変貌をもたらしたかを想像するだけで、ただただ驚嘆してなりません。

写真提供:1923(大正12)年4月22日皇太子殿下行啓記念絵葉書:カバーと瑞竹の由来

出版者:台湾製糖株式会社、台湾屏東市、1923年

収蔵者:国立台湾大学図書館 デジタルアーカイブ

ほうふ日報 第13621号 令和8年4月7日発行



「多々良の邸宅に思いをはせて」

元台湾東海大学 農学部 教授 王 良原

その1:ほうふ日報 第13590号 令和8年2月19日発行

その2:ほうふ日報 第13607号 令和8年3月17日発行

その3:ほうふ日報 第13621号 令和8年4月7日発行


山口県防府市本橋7の26





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